―中学生が失踪した話


 1999年、スズキユウタは失踪した。


 彼は、ある地方都市の小規模なベッドタウンに住んでいた。そのベットタウンは、平野部にあり、もともと旧陸軍の基地があり、戦後農地になって、その後1970年代に造成されている。碁盤の目に一戸建て庭付きの住宅が並んでいて、農地が飛び飛びにあり、幹線道路の国道沿いにローソンとツタヤと大きなスーパーがあり、セガのゲームセンターがあって、一番高い建物が4階建てのアパート、というような典型的な団地である。


 スズキユウタの家族構成は両親と、妹一人核家族だった。両親は地方都市で2番目にシェアを確保している量販店の販促部で勤務していた。勤務成績は通常だった。妹とスズキユウタはほぼ年齢が同じで、彼らは、市立のイチノセ中学校に通学していた。成績は学年70番だった。トップという名前の進学塾に通っていた。が、実際は通っていなかった。部活同には所属していない。


 彼は6時30分に起床すると、課題を処理し、朝食をゆっくりたべて、朝刊の国際面をきっちり3分12秒でを読み、2分で着替え、サークルKで漫画を読んだ後、8時31分に登校した。授業が終了すると、10分ほど、友人とテレビ番組の話をし、学校について不満を語ったあと、塾があるからといって話を打ち切り、塾に行かずに帰宅した。夕食後、トレーニングを行った後、平均8分間入浴した。そしてノートをとりながら本を読んだ。読む本には実用書が多かった。寝る前には入念にストレッチし、部屋の明かりが11時30分には消えた。こうした週間を毎日正確に繰り返した。


 彼の印象は共通していた。友人も、隣人も、教師も、両親も、違う言葉で「いい子ですね」と答えた。要するに、彼の存在感は比較的薄かったということである。彼自身関心をもたれるような、容貌や、特徴を持っていたわけではない。すべて平均。このベッドタウンには、コミュニティなんて最初からないので、特徴を持っていない人間には、特に関心は払われなかった。


 ただ、スズキユウタは「いきのこり」を非常に意識していた。なぜそうなのかはわからないが、それは才能だった。かれは、スズキユウタがみのむし台小学校の卒業文集にこのようにかいている。


 ―ぼくは、スポーツマンにも、絵描きにも、ゲームをつくる人にも、サラリーマンにもなりたくはありません。ただ、もしだれもいなくなっても、普通に生活するだけです。


 スズキユウタは、失踪した。1999年7月12日だった。



 自殺者が遺書を残すケースがまれであるように、彼も失踪するサインを、まったく、残さなかった。部屋の中は何も変わったことはなかった。ただ、荷物と服がなかった。それだけだった。窓脇にあるドイツの徒刑囚がつくった白い机の上には、開かれた大学ノートと無印良品シャープペンシルと汚れた国語の教科書が転がっていて、ノートの上には消しゴムのカスが残っていた。机の右側にはベッドがあって、背の低いナイトテーブルがあった。ナイトテーブルの上には、本が雑然と積まれていて、アルミのコップとメモ帳と、海兵隊歩兵操典が見えた。ナイトテーブルの上のコップの中には飲みかけのウーロン茶が残っていた。ウーロン茶の中でカメムシがもがいていた。フローリングの床の上には作りかけの複葉機のプラモデルがあった。要するに、失踪する前の日と何も変わってはいなかったということだ。



 8時45分、母親が部屋の戸を開けると、スズキユウタはいなかった。放送室の中のように静かだった。母親はしばらく部屋の中を確認した。微風が吹いていた。カーテンが静かにゆれている。彼女はスズキユウタの靴を確認しにいった。なにもなかった。彼女は学校にでもいっているのだろうと思った。夜、帰宅しなかった。一週間たっても帰宅しなかったので、さすがに彼女は心配して警察にいった。



 両親が警察に失踪届けを提出したのは一週間後だった。その日、警察はマニュアル通り、全国失踪者名簿にスズキユウタの名前を載せて、全国に手配した。翌日の中学校の職員会議ではスズキユウタの失踪が議題にあがったが、期末試験の前日で、忙しかった教員の関心は低かった。教員のスズキユウタの印象は、「いいこですね。」程度だったという理由もある。



 失踪後三週間を過ぎて、両親はなにかしなければと思った。話し合った。だが有効な手段が見つからなかった。仕方がないので簡単なビラを作り、コンビニでコピーして、配布し始めた。しかし、意味はなかった。目撃証言はなく、失踪者名簿にも引っかからなかった。そのため教員の出席簿から削除されなかった。両親は、スズキユウタの部屋をいつ帰ってきてもいいように、部屋を失踪当時そのままにしていたが、スズキユウタの部屋にいつまでも明かりがつくことはなかった。そうした対策は自己満足に過ぎず、意味はない。そのことを彼らは気づいていた。が、口には出さなかった。スズキユウタがツタヤの会員カードを更新しなければならないころには、彼の家族は諦めていて、母は夕食を三人分しか作らなくなっていた。彼の妹が高等学校に進学するころには、埃が積もっていた白い机などは、粗大ゴミとして処分された。



 このようにして、彼の失踪した事実は忘れ去られていった。写真屋の手違いで、スズキユウタのクラスの卒業写真には、彼の写真は載らなかった。誰も気づくことはなかった。



 七年後、両親は簡易裁判所に行って失踪宣告をもらった。失踪後七年で死亡と同じ扱いになることは弁護士から聞いていた。手続きの末スズキユウタの戸籍はなくなり、彼はなくなった。


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