―飽きている概念


飽きている概念を強く主張されると、不快感を感じる。これを「辟易」するという。
今朝テレビで、ワイドショー的な番組を見ていた。ある作家と、テリー伊藤が、
ドンキホーテの放火、奈良の女児誘拐事件、北朝鮮のねたについて、
「警察(外務省)など行政のミスだ。犯人が悪いわけではなく、犯行を引き起こさせるような社会が悪い。
社会を作っているのは政府だと信じているので政府がわるい。」という。



このような発言に辟易する理由は二つある。



第一に、とにかく行政の責任にしたらいいというものでもない。
また、生まれて20年間、同様の趣旨の発言を聞きすぎたため飽きている。
その上、思う。「お前が役人なら、防ぎえたのか?」とも思う。




第二に、理解が薄い。
たとえば、法律はある場合についての人間同士の権利関係についての、国民の合意、を記述したものである。
法律は権利関係を明文化しただけものだから、(社会正義には立脚しているものの)法律と善悪は別物である。
にもかかわらず、善悪について述べる。物損事故でもそうだ。善悪二言論では割り切れない。
双方にある程度の過失があって成立する。こうしたことを理解していない。
ただ、素朴な庶民の感情を、代弁しているだけに過ぎない。



さらに、たちが悪いのは、感情を理屈っぽくまとめているだけなので、議論ができない。
テレビタックルを見ろ。あの議論はかみ合っていない場合が多い。識者が冷静に議論しよ
うとしても、できない。かみ合わない。北朝鮮と日本の外交関係のようなものだ。



こんな番組は、面白いのか?バラエティのほうがよっぽど面白い。バラエティとしてみろ
ということなのだろうか。僕はうっとうしいので、バラエティとして見れないために、辟
易してしまう。不快だ。



テレビの文脈が乏しいことが、原因なのかもしれない。



前向きに、楽しもうと思ったら、「ほんと役所って役人根性丸出しでさ、交番言っても誰も
いないしさぁ、パトカー信号むしるしさ。」などといってビール片手に怒る、ことをしなけ
ればならない。



たのしみたいので、努力してみます。