ようわからん。(この文章は螺旋だ。)


昔読んだ、マヤ文明の本を思い出してみた。


確か、マヤ語の文法構造(述語、主語、目的語でくるVSO文型が基本で、能格言語である、てやつ)の例で「馬を歩く」て文章があった。



馬を歩く。
ありえない文章だ。
馬の上を歩けるのか?揺れるし、歩けるほど大きくはない。


だが、このありえない文章には莫大な可能性がある。


第一に、言葉の組み合わせは無限大だとわかる。
第二に、馬の指し示す意味が「馬という名前の通り」「馬、という名前の観光地」
だったり、horseでなくて別のもので、経験上ありえそう(通りも観光地も歩けるもんだ)だったら、この文章は成り立つ。そういう意味で「指示対象」と「共有されているイメージ」の関係を崩せる。理屈で考えると、UMA、うま、馬と馬の関係は無限大だ。


可能性は無限にある。何がこういう関係を作ったのだろうか。



多分、「偶然」なんだと思う。



DNAを遺伝物質に使う必然性は特にない、て意見がある。この意見が正しいとする。DNAは偶然使われている。馬とUMAも偶然使われていると類推できるのかもしれない。(俺の理屈はほとんど類推だ。)



人類は、そういうわからんことを偶然やらそういうもので説明したくなくて、先祖の怒りだとか、精霊のためだとか、神様のせいだとか、万有引力だとか、光の速さは絶対に変わらないだとか、で納得しようとしている。



多分、僕らの脳みそには、納得せずにはいられない性質があるようだ。