―世界に意味はない。愛なんて弱者のいいわけだ


さっき道端で気づいた。


世界に意味はない。何も意味はない。もちろん、なぜ自分の存在意義を求めるなんて
おろかしいことだ。俺もおらんし、日本民族も存在しない。


意味はそれぞれ人間がつけているのである。


繰り返すが、世界に意味はない。



第一に各個体の認識に多様性が見られる。

まず、ミツバチの見る黄色と、人間の見る黄色はもちろん色が違う。そもそも、認識できる光の周波数が異なる。

つぎに、犬はそもそも色を認識していない。

最後に、人間でも、目の錐体細胞たんぱく質構造の違いから、
赤色を朱色がかった赤と認識する人と、赤、と認識する人がいる可能性がある。
色でさえ認識はことなる。


その上、色の意味づけは民族、個人によって異なる。
白は中国では喪に服す色だという。
ロシア語では、赤=美しいである。同じ言葉を使用している。

このように意味の取り方には多様性がある。

ここで単純に「多様性ってすてきだなぁ〜」と安直に捕らえてはならない。


第二に、意味づけを必要としているのはおそらくヒト科の動物だけだ。
どういうメカニズムか不明であるが、人間の脳には意味づけしようとする傾向があるらしい。おそらく前頭葉連合野にその中枢があるという。情報処理の時間を短縮するためか、適当に進化したらこうなったのか、わからない。
だが、行動科学の見地から見ると、確かに人間には意味づけしようとする傾向がある。解明には、これからの研究に期待される。
カニズムは不明である。
しかし、重要なことは、人間の脳が意味づけしているのであって、世界に共通する意味があってそこから意味を抜き出しているわけではない。決して客観的な意味が世界に存在しているわけではない。


よって世界に意味はない。

だが、これは行動しないでおこうという意思表示が隠されているわけではない。
マイナスのニュアンスもプラスのニュアンスも含んではいない。
単純に、事実として、提示しているだけだ。

なぜか。世界に意味はない。と捉えることは、これは決してニヒリズムでもなんでもない。かえって、大きなメリットがある。


実際、(真に客観的な)意味、真実、というものがなく、意味づけをしているのが
人間各個体であるのならば、各個体が自由に意味づけできるのだから、
自分にとって一番「使える」認識をすればいい。
言い換えると、意味づけが、武器になる。使える。


昔、人生とは何ぞやとかんが得すぎて自殺した一高生がいたらしいが、
別にかんがえんかったらいいだけの話なんで、そんなことしなくてもいいわけですは。(話はずれるが、きっと彼はノイローゼだとか、セロトニンがたらんかったとか、遺書はうそで、本当はばくちによる借金があったとかやと僕は思っている。
精神病ならクスリで直る。もうすぐ感情を自由に操れる時代が来るから、多分そんなやつはでんだろう。)


だから、こじつけといて適当に使用したらいいだけの話なのだ。


だが、世界感をテーマにした情報は多い。少なくとも過去2000年にわたってある。
誰が最初の哲学者かわからんが、孔子仏陀アリストテレスはもう2500年前の人間だ。


多分今僕がやってるみたいに、人間には、自分の世界観を他者に伝えたいという欲求があり、また、他者の世界観を借りて使用したい、というニーズもあるのだろう。


では、異なっている世界観をどうやって共有しているか?
疲れたので、この話題は次にまわしましょう。



ここから5月29日記入。

異なっている世界観を共有しているのは、手段は言語。
言語の内容は、伝説や神話や芸能人の話など、それらに共通する文脈。大きく捉えて文化。だ。

これらを幻想であるが、人間集団にはどうしても必要なものか、あるいはコミュニケーションの副産物かわからんけんど、とりあえずどの民族にも、どの集団にも、どの社会にもある。

きっと、世界観を共有することが目的なのではなく、高度なコミュニケーション能力を獲得した人類がたまたま得た副産物なんだろう。

根拠かくのめんどいので、また今度修正する。