―「自己と不安」

今日24時間睡眠をやらかした。睡眠はどうも体の状態をリセットするらしく、直った。これで普通に社会生活を営めるようだ。
やることはたくさんある。一個一個つぶしていこう。


さて、今日、「自己と不安」という本を読み返してみての感想。

読みにくい。

パラグラフにいいたいこと一個という法則なし。
もちろんトピックセンテンスもない。
つまりパラグラフの頭だけ読んでほんの概略をしるという速読がむずかしい。
つまり読みにくい。

また、目次の項目も内容を表していない。目次だけ読んで概略をしる速読ができない。読みにくい。

最後に、引用だけして、自分の主張を書いていない。引用文だけ呼んで読者に考えてもらいたいというやつ?
これも読みにくい。引用は主張の根拠につかうためにあるんじゃあないのか?

繰り返す。読みにくい。うざい。だるい。


読みやすい明晰な文章を書くための教育を小学校でやらないのがめんどくさい。間違っている。

小学校の作文に要求されるのは「感性」いいかえると「どんなことを感じたか?」ということだ。

感性は重要だと思う。だがそれ以前に人に読みやすい文章を書かせる教育が先決ではないのだろうか?

わかりやすく説明するには論理がいるだろう?


きっとこれから仕事についても、情報量が多いので、読む文少量も多くなるはずだ。2020年にはさらに増えているだろう。

そういう時代をサバイバルするには少しでも早く内容を捉える能力が必要だ。処理船とならん情報量が多いから。

ま、この妄想が正しいとするなら、即刻国語の時間にわかりやすい文章講座が必要になるだろう。


さて、さらに話は飛躍する。ゆるして。

なんか小学校の教育につながる話になってきた。書きながら思ったことは、教育政策の判断基準てすこぶる不明確だ。

これは文部省が悪いとかじゃなく。教育政策のアウトプットを図る基準がほとんどないということ。

金?で図れるぐらい単純じゃないし、考えなければならないスパンは何十年周期だ。

この判断基準が不明確だから、今の教育政策についての議論は紛糾しているのではないか?


きっと、教育政策を図るためにはものすごい性能のコンピュータが必要になってくるはずだ。量子コンピュータ?だとすれば教育政策を科学的に論じるには後5,60年かかるのか?


まてない・・。教育の需要はどんどん高まっている・・。


すると教育する主体が政府だけでなくてもっとたくさんあったほうがいいという話になるのか?よーわからん。


どうなんですかね?


6月2日追伸


また、どういう人材が必要かというVISIONが明確、具体的でないことも教育について語る一つの軸になるだろう。


僕は、VISOINを作るのは、学校レベル、塾、専門学校などの各教育機関であるとかんがえる。理由は第一に、教育を受ける、受けさせるステークホルダのニーズが多様化しているため。この考えを採択すると、一律でVISONを制定することには、弊害が大きくなる。教育産業も海外に流出するなどの弊害だ。


どうなんだろう?